食品・輸出コンサルタント・永尾健史のマイストーリー①
- 健史 永尾
- 4月4日
- 読了時間: 3分
国内でも数少ない中東市場を開拓済。20カ国超に「日本」の良さを伝える食品・輸出コンサルタント、永尾健史です。

広い世界に憧れ、兵庫の田舎から金沢の大学へ
私の出身は兵庫県西脇市で、織物が有名な町で生まれ育ちました。両親も織物工場で働いていましたが、海外から安価な生地が大量に入ってきたことで事業そのものが衰退。やむなく、別業種の会社へと転職することになりました。共働きの家だったこともあり、両親は放任主義で、その分、幼い頃は祖母によく面倒を見てもらっていました。
畑に行って走り回っては泥にまみれる幼少期を経て、小中学校に進学してからは、野球に熱中する日々を過ごしました。残念ながら、周囲の仲間達と比べて自分の腕前はそこそこ止まりだったので、高校に進学して軟式から硬式に切り替わったタイミングで、野球はスパッと諦め、帰宅部でマイペースに過ごしました。
インターネットもまだ普及していなかった当時、私にとっては、田舎町の風景と人々が世界の全てでした。将来の夢といったような明確な目標はなかったものの
「もっと広い世界に飛び出してみたい」
「今の自分を変えてみたい」
という憧れめいた気持ちは、その頃から胸の内で燻っていたように思います。
高校を卒業した後、働くのか、大学に進学するのか。経済的に恵まれた家ではありませんでしたし、3種国家公務員試験に合格していたので、就職という選択肢も考えましたが、一番気になっていた外務省の面接に落ちたことで、進学を決意。金沢工業大学の経営工学科へと進学しました。仕送りはもらわずに自力でがんばるという約束を両親とした上での進学だったので、奨学金をフル活用しつつ、授業の時間以外は大半アルバイトに費やしつつ、学費と生活費をやりくりしていました。
とはいえ、時間にゆとりがあるときは、友人たちと一緒に車であちこち旅をするなど、遊びにも力を注いでいましたし、ハードながらも充実した学生生活だったように思います。4年次に入ってからは、人間工学の研究室に所属することになり、「コオロギは睡眠をするのか?」をテーマに取り組むことになりました。その研究室では、学生の基礎力を重視していたこともあり、研究とは直接関係のない分野についても細かく指導が入りました。
研究室では言葉遣いから文章の書き方、さらには当時世に出回り始めたばかりのWindows98の使い方からホームページの作成方法まで、様々なスキルを叩き込んでもらいました。
ただ、そのスキルを仕事にすぐ活かそうという考えはなかったので、就職先は学校から推薦されたオフィス家具を扱う上場企業に決めました。
今回のブログではここまでです。
次回は、「飛び込み営業に駆け回った新入社員時期」の話です。
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